日本の神楽・広島芸北の神楽
【日本の神楽】神楽は、自然の恵みに感謝する心から生まれた農耕儀礼です。昔むかし私たちの先祖は、この世の出来事はすべて神々の営みであると信じていました。そして、秋の収穫が終わると様々な食べ物を神聖な場所へ供えて、お祭りの形を整え、神さまに感謝する姿を神楽という儀式に仕上げました。その後、古代になると中国から伝わった陰陽五行を説く陰陽道が神楽へ取り入れられました。陰陽道は東西南北の方位や春夏秋冬の四季が大自然の理(ことわり)として、人々の暮らしや農耕生活に深くかかわっていることを伝えました。こうして、原始的で素朴な農耕儀礼の形の神楽へ太陽信仰の強い神事や儀式が加わるようになり、さらに国家安泰・無病息災などより広い願い事や祈りの行事へと発展しました。また、一方では、安住の地を求める人々によって氏神さまを奉る氏神神社が全国的に建てられていきました。この動きは、神楽を伴い全国的なものとなったのです。現在、神楽は各地の文化風土に支えられ、各地それぞれの歴史の中で独特の神楽に育てられて、伝統芸能・郷土芸能と言われる日本の民俗芸能としてふ全国的に保存・伝承されています。【広島芸北の神楽】 古代、出雲(現:島根県)文化としての農耕儀礼や神事神楽が、山陰の西の国・石見(いわみ)地方へ伝わりました。 この石見地方で、古事記や日本書紀などの神話や物語が取り入れられて、石見神楽独特の神楽文化へ成長しました。 ここに、全国に類を見ない神様だけが楽しむ神楽から、神楽を演じる者も見る者も楽しい石見神楽が仕上がったのです。 そして、この石見神楽は江戸時代の終わり頃から広島県の芸北地方へ伝えられました。明治時代になると神職を中心に舞われていた神楽は、氏神神社の氏子へ受け継がれることになり、次第に娯楽性の高い神楽が中心に舞われるようになりました。 戦後になると日本の古典芸能の能や歌舞伎などの物語や伝説を神楽化した演目も加わりました。 一方、神楽競演大会などが開かれるようになると、神楽する心や技などが審査されることになり、演劇性や芸術性が問われる神楽へと進化しました。 さらに、スーパー神楽・中川戸「神々の詩」のタイトルで開かれた広島市・アステールプラザ大ホールでの中川戸神楽団(旧千代田町)・自主公演(1993年5月)の成功は、神楽を舞台芸術まで押し上げたのです。 広島芸北の神楽は、農耕儀礼から古代日本(やまと)の国誕生の物語や、平安時代の伝説・歴史物語など総数70演目余りが伝えられ、今なお神楽団のオリジナル演目が加えられています。 また神楽団は、芸北地域に100団体余りが活動しています。神楽は、農山村を越えて若者文化となり、心身ともにたくましい次世代を育てはじめました。古くて新しい日本の文化が神楽で築かれようとしています。■文責:NPO広島神楽芸術研究所
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