皆々様こんにちは! かなり前になってしまいますが7月14日(日)に千代田開発センターで、
『月一の舞 ー神楽台本作家 石丸賢太郎の世界ー』がありました!
「どうせやるならとことんやってやろうかみくずし」
私が勝手に神楽界の秋元康だと言っている石丸さんという人はとっても面白い人物です。神楽のこととなると1つ質問すればかなり詳しく楽しく10は語ってくれます。(笑)
さて、そんな石丸さんにどうして神楽の脚本を書こうと思ったのか、創作神楽をしようと思ったのか、気になるその理由についてインタビューしましたよ!
まず石丸さんは神楽界が予定調和になりつつあると感じていました。
良い舞をしているのに光が当たらない神楽団を見てもらうにはどうしたらいいのか。
見てもらえない→出る場所がない→練習回数減少→質の低下→出演依頼の減少のスパイラル・・・そこで!!!
新作に取り組むことによって、その神楽団の意識の単一化、また、上のほうを見たままの観客の視線を集める手段をとりました。それが!創作神楽なのだそうです。
「伝統を壊しているのではないか」と思われる方がおられることも本人はご存知です。しかしながら石丸さんは誰よりも神楽を愛しているからこそ脚本を書き続けるのです。
だから石丸さんの脚本からはどれも味わい深いものが感じとられます。そして知り尽くしたものだけが書ける物語がそこには広がっているのです。石丸さんは以前舞手でもありました。そのため各神楽団さんと信頼関係を築きながらその目線から一緒に試行錯誤し舞台を作り上げていきます。
今回も会場に足を運ばれた方は石丸さんとそれぞれの神楽団さんの神楽への溢れんばかりの愛と情熱、そして家族のような信頼関係を目の当たりにしたことでしょう。
それではそんなあっつーい石丸ワールドの報告に入っていきますね!!
『将門記 前編 新皇宣下』-鈴張神楽団-
新皇宣下とは何ぞや!と思われた方、
これは『将門記 最終編 滝夜叉』につながっていく物語です。将門を中心に血のしがらみに翻弄される一族が描かれています。
相馬の地を離れている間に叔父の國香により父良将を殺された良将の一子小次郎将門は、息子良門、娘五月姫と共に
「実の兄たる我が父をその刃にかけ一族宗家を名乗りしか、真に以って許し難し。」と、國香と國香に従う一族を尽く討ち取り「成敗」し國香の非道を正すべく憎き國香のもとへ向かいます。
國香は國香で将門を捨て置けば安住ままならないが、味方にすれば鬼に金棒だと考えます。
「速やかに宗家の証を返せば命は助ける」と言う将門に、國香は「もしお前の父を殺したことが本当であってもお前のような若輩者の言うことなど誰が耳を傾けるか、我に従えば非礼を許し将来を約束しよう」と言います。
この期に及んでこのように言う國香に将門は「血を分けた叔父と思えばこその情けをかけた自分の愚かさを呪うばかりだ」と刀を取ります。激しい決闘の末國香を討ち取った将門はこのように言います。
『今(いま)こそ、手始め(てはじめ)に関(かん)八州(はっしゅう)を切り取り(きりとり)て、民安(たみやす)かれたる常世(とこよ)の国(こく)を作り上げ、ここに自ら(みずから)“新しき(あたらしき)皇(すめらぎ)”、『新皇(しんのう)』宣下(せんげ)を致し(いたし)、政(まつりごと)を執り行わん(とりおこなわん)とぞ思う(おもう)なり。』
新しい時代が来そうだ!と
将門の時代の幕開けを感じる、ここまでのお話が新皇宣下です。
決闘の場面は本当に迫力があって瞬きもできないような立ち回りでした。私が驚いたのは五月姫なのですが、ひ、姫!?と唖然となるような俊敏で逞しく、それでいて女性を感じさせるかっこいい戦い方で、これから先に待ち受ける運命も思わせるものになっていましたね。
『将門記 最終編 滝夜叉』-下五原(しもいつはら)神楽団-
こちらはちょっと変わった滝夜叉姫。男勝りなんだけど男より強いわけじゃない。(石丸さんいわく)そんな滝夜叉姫。父将門も集まった民衆の想いによって新皇とならざる負えなかった、五月姫もまた・・というような世界観のなかで「夜叉」の名に狂わされた一人の女の子、「新皇 将門の遺児(娘)」という肩書によって、祭り上げられたことによって、
「滝”夜叉”(狂気)」とならざるを得なくなった、運命を名前に狂わされた女の子の物語となっています。
さて前編からの血のしがらみは途絶えることなく続き、この最終編では國香の嫡男平貞盛によって将門、そして息子良門は命を散らします。
話はずれますが史実のほうではある時点においては平貞盛という人物は、将門が父國香を死に至らしめたにも関わらず彼に非はないと考えており、互いに親睦を図るのが良策だという態度を見せていた、そうです。それが最終的には将門を討つに至るわけですからこの物語の根幹にある血のしがらみ、ってものを感じさせますよね。
それで話は戻りますが、残された五月姫は父と兄の無念を嘆き夜叉となるわけです。
ですがそれを快く思わない政権の力によってねじ伏せられます。
「如何に父上、如何に兄上。我らが悲願も叶わじか。これにて、ご両人の御許へと我も参じ仕らん。」
何とも同情させる最期です。一人の女の子である五月、人よりも悲しみが多すぎた女の子・・
それにしてもインタビューのときは口数少なくおとなしい印象だった五月姫役升本さん。「頑張ります」とだけぽつりと仰っていましたが、やはりひとたび始まれば人が変わったようです。感情が入り混じった滝夜叉姫を見事に演じられていました。
後半に続く・・・
2013,09,28 Sat 14:26
コメント
まこと、おっしゃられるとおりだと思います。
当地域の神楽には、ご存じのとおり新曲目、旧曲目あり、儀式舞い、能舞いあり。
しかし、いくら素晴らしいものがあっても続けられなければ、、、、
古来禅問答にあるそうです。
だれもいない森、大きな樹が倒れました。
音は、したでしょうか?
この意味、考えてみては、いかがですか?
当地域の神楽には、ご存じのとおり新曲目、旧曲目あり、儀式舞い、能舞いあり。
しかし、いくら素晴らしいものがあっても続けられなければ、、、、
古来禅問答にあるそうです。
だれもいない森、大きな樹が倒れました。
音は、したでしょうか?
この意味、考えてみては、いかがですか?
| 匿名2 | EMAIL | URL | 13/10/06 16:15 | NuTl7ZSA |
口上ばかりで拝みもない。ちゃんと拝んでいると言われるかもしれませんが一方も拝めてませんよ?
神楽は劇ではないですよね?
歴史などに詳しいのはとても素晴らしく尊敬します。
しかしあまりやりすぎると神楽がもつ本来の意味がわからなくなりますよね。舞っている方々も所作の意味、手物の使い方、などなど理解したうえで舞ってほしいです。私の意見には賛否両論あるとおもいます。むしろ否の方が多いでしょう。ですが私は神楽が本当に好きで、ここ最近の演出、創作神楽などが増え神楽が神楽でなくなってきているのではないかと疑問を持ったのでこの場をお借りして意見を述べさせていただきました。
派手でかっこいい舞、演出が好まれる時代なのでしょうがないのかもしれませんね。私は自分たちの台本にない新しい演目を次々やるよりも、元々台本にある古い演目をおこして言ったほうがいいと思うのですがね。OBの方たちが元気なうちに教えてもらっとかないと後々とりかえしのつかないことになりますよ。
これはあくまで私個人の意見です。長々と申し訳ありませんでした。
神楽は劇ではないですよね?
歴史などに詳しいのはとても素晴らしく尊敬します。
しかしあまりやりすぎると神楽がもつ本来の意味がわからなくなりますよね。舞っている方々も所作の意味、手物の使い方、などなど理解したうえで舞ってほしいです。私の意見には賛否両論あるとおもいます。むしろ否の方が多いでしょう。ですが私は神楽が本当に好きで、ここ最近の演出、創作神楽などが増え神楽が神楽でなくなってきているのではないかと疑問を持ったのでこの場をお借りして意見を述べさせていただきました。
派手でかっこいい舞、演出が好まれる時代なのでしょうがないのかもしれませんね。私は自分たちの台本にない新しい演目を次々やるよりも、元々台本にある古い演目をおこして言ったほうがいいと思うのですがね。OBの方たちが元気なうちに教えてもらっとかないと後々とりかえしのつかないことになりますよ。
これはあくまで私個人の意見です。長々と申し訳ありませんでした。
| 匿名 | EMAIL | URL | 13/09/30 18:45 | EVrMiScI |
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