11月24日は「ひろしま神楽グランプリ2007」が美土里町の神楽門前湯治村の神楽ドームで行われました。今年のグランプリに輝いたのは新舞の部は横田神楽団「滝夜叉姫」、旧舞の部が三谷神楽団「大江山」でした。会場は最初から最後までたくさんのお客さんで、改めて神楽人気の高さを感じました。
審査発表の前に、審査員の方が総評を言われたのですが、その中に「神楽には神秘性があるものがよいのではないか」というお話がありました。「神楽」という言葉には「神」という字が使われていますし、元々は神様に奉納するために舞われていました。しかし最近は、創作神楽などを見てもあまり神様が意識されておらず、神秘性の乏しいものが多い傾向にあるようです。これは神楽の将来にとって、あまりよいとは言えないのではないか、というお話でした。もちろん全てがそうではないですし、こういう大会ではお客さんのことを考えた神楽も必要だとは思いますが、このお話を聞いて色々と考えるところがありましたね。
今回は特派員報告というと少しズレるかもしれませんが、このお話について自分なりに考えてみたことを書いてみます。
先ほどの話をもう一歩踏み込んでみたのですが、自分が思うには「御神徳が大切」ではないかということです。御神徳(ごしんとく)というのは神様の威徳(いとく)という意味で少し難しいのですが、要するに神様の偉大なる力、といった感じでしょうか。
例えば「塵倫(輪)」なら、神が「弓矢の威徳をもって」というセリフを言うはずです。新舞(戦後作られた新しい演目)においても、「これなる幣(みてぐら)の御神徳をもって」というセリフはみなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか。つまり、神が手にしているのが弓矢や刀であっても、実際に悪者を退治するのは、その武器の先にある、神様の力なのです。ファンのみなさんからすれば、この「目に見えない力」というのがもちろん見えないのもあって、わかりにくいし伝わりにくいものです。しかし、この考え方こそが、神楽と他の芸能(芝居や演劇等)との大きな違いであり、大事にしなければならないものであると思います。
確かに、神が何度も鬼に切りつけたりする場面は、見栄えがしますし、見ていても力が入ったり感動したりするところではありますが、本来の神楽の意味からすれば、あまり必要のない場面と言えるかもしれません。あくまでも神楽は神楽であり、楽と舞があってこその神楽です。基本の舞をおろそかにし、見栄えだけを追及していては、神楽がどんどん崩れてしまいます。お客さんに喜んでもらいながら、なおかつ神楽の大事な部分を伝えるということが、神楽団の使命となってくるのではないでしょうか。時代とともに神楽が変わっていくのは当然ですし、自然な流れですが、こういった考え方や基本を大事にしなければならない、ということを今回のお話で強く感じました。
ファンのみなさんも、ただ神楽を見て楽しむのではなく、この地域の神楽を守るために、少しでも神楽について興味を深めていただければと思います。
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審査発表の前に、審査員の方が総評を言われたのですが、その中に「神楽には神秘性があるものがよいのではないか」というお話がありました。「神楽」という言葉には「神」という字が使われていますし、元々は神様に奉納するために舞われていました。しかし最近は、創作神楽などを見てもあまり神様が意識されておらず、神秘性の乏しいものが多い傾向にあるようです。これは神楽の将来にとって、あまりよいとは言えないのではないか、というお話でした。もちろん全てがそうではないですし、こういう大会ではお客さんのことを考えた神楽も必要だとは思いますが、このお話を聞いて色々と考えるところがありましたね。
今回は特派員報告というと少しズレるかもしれませんが、このお話について自分なりに考えてみたことを書いてみます。
先ほどの話をもう一歩踏み込んでみたのですが、自分が思うには「御神徳が大切」ではないかということです。御神徳(ごしんとく)というのは神様の威徳(いとく)という意味で少し難しいのですが、要するに神様の偉大なる力、といった感じでしょうか。
例えば「塵倫(輪)」なら、神が「弓矢の威徳をもって」というセリフを言うはずです。新舞(戦後作られた新しい演目)においても、「これなる幣(みてぐら)の御神徳をもって」というセリフはみなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか。つまり、神が手にしているのが弓矢や刀であっても、実際に悪者を退治するのは、その武器の先にある、神様の力なのです。ファンのみなさんからすれば、この「目に見えない力」というのがもちろん見えないのもあって、わかりにくいし伝わりにくいものです。しかし、この考え方こそが、神楽と他の芸能(芝居や演劇等)との大きな違いであり、大事にしなければならないものであると思います。
確かに、神が何度も鬼に切りつけたりする場面は、見栄えがしますし、見ていても力が入ったり感動したりするところではありますが、本来の神楽の意味からすれば、あまり必要のない場面と言えるかもしれません。あくまでも神楽は神楽であり、楽と舞があってこその神楽です。基本の舞をおろそかにし、見栄えだけを追及していては、神楽がどんどん崩れてしまいます。お客さんに喜んでもらいながら、なおかつ神楽の大事な部分を伝えるということが、神楽団の使命となってくるのではないでしょうか。時代とともに神楽が変わっていくのは当然ですし、自然な流れですが、こういった考え方や基本を大事にしなければならない、ということを今回のお話で強く感じました。
ファンのみなさんも、ただ神楽を見て楽しむのではなく、この地域の神楽を守るために、少しでも神楽について興味を深めていただければと思います。
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2007,11,25 Sun 22:03
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