ようやく大江山の麓(ふもと)まできた。だが、千丈ケ岳(せんじょうがたけ)まではまだまだ遠い・・・。この大江山については、語らなければならないことが山ほどあり、とてもじゃないが一つの章だけでは無理なので、前・中・後編と三章に渡ってお送りすることにする。
まずは大江山の場所について。実は大江山は二つある。これまた知らない方にとっては混乱を招きそうだが、わかりやすく地図を描いてみたので参考にしていただきたい。
神楽でおなじみの「丹波の国大江山」は、都から北西の位置にあり、かなり離れている。が、中世の「大江山」と言えば、すぐ近くの「大枝山」を指していた。ここには酒呑童子の首塚が残されている。また、日本武尊が鬼神を退治する舞台などの伊吹山が酒呑童子退治の場所とする伝説もあったりする。
そのあたりも詳しくみていきたいのだが、そうなると「源頼光」から離れてしまい、またその事だけで二章はスペースをとらないといけない。ということで「大江山」の舞台については、一般説である「丹波の国大江山」とし、今回は他にも「大枝山」がありますよ、という紹介のみにさせていただきたい。
では、神楽「大江山」のもとになったと言われる謡曲「大江山」を少しだけ紹介する。謡曲(ようきょく)というのは、簡単に言えば能のセリフが書かれているもので、神楽と関係しているものは他に「紅葉狩」「土蜘蛛」「安達ヶ原」「鉄輪」などがある。今までは広島弁でわかりやすく紹介してきたが、謡曲を広島弁にしてしまうと謡曲ではなくなってしまうので、少し難しいがそのまま掲載する。
ワキ(頼光)ワキヅレ(従者) 秋風の音にたぐへて西川や、雲も行くなり大江山。
ワキ 抑々これは源頼光とはわが事なり。さてもこの度 丹波の国大江山の鬼神のこと。占方の詞に任せつつ、頼光、保昌に仰せつけらる。
ワキヅレ 頼光、保昌申すやう、たとひ大勢ありとても、人倫ならぬ化生の者、いづくを境に攻むべきぞ。
ワキ 思ふ子細の候とて、山伏の姿に出立ちて。
ワキヅレ 兜にかはる兜巾を着。
ワキ 鎧にあらぬ篠懸や。
ワキヅレ 兵具に対する笈を負ひ。
ワキ 其のぬしぬしは頼光、保昌。
ワキヅレ 貞光・季武・綱・公時、又名を得たる独武者かれこれ以上五十余人。
ワキ まだ夜のうちに有明の。
ワキ、ワキヅレ 月の都を立ちいでて、行く末問えば西川や、波風立てて白木綿の御抜も頼もしや。鬼神なりと大君の恵に洩るる方あらじ、ただ分け行けや足引の大江の山に着きにけり、大江の山に着きにけり。
ワキ 急ぎ候程に丹波の国大江山に着きて候。あら不思議や、これなる川にけしからず血の流れそうろう。いかに誰かある、この所にて童子の住処を尋ねて宿を取り候へ。
狂言(剛力) 畏まって候、まず急いで参ろう。(中略)これはこれは女房衆そなたは何として此処にいるぞ。
(女) そのことでござる、わらわは三歳以前に酒呑童子に捕はれて毎日毎日このやうな濯ぎをしていることでござる。
(剛力) 子細を聞けば尤もでござる。某がこれへ来たはこの度頼み奉る頼光公、童子を退治あるべきとの事ぢや程に、そなたも都へ同道せうによって、何卒そなたは肝を煎つてお宿を申してくれぬか。
(女) 何がさて都へ連れて行て下さるならば、お宿のことはわらわが合点でござる。童子へ其由申しませう程にまづそれに待たせられい。
(剛力) 心得ておりやる。
(女) いかに童子の御座あるか。
シテ(酒呑童子) 童子と呼ぶはいかなる者ぞ。
狂言(女) 山伏達の御入り候が、一夜のお宿と仰せられ候。
シテ 何と山伏の一夜のお宿と候や、怨めしや桓武天皇に御請け申し、われ比叡の山を出でしより、出家には手を指さじと固く誓約申せしなり。中門の脇の廊に留め申し候らへ。
狂言(女) 心得申して候。
シテ いかに客僧たち、何処より何方へ御通り候へば、此の隠れ家へは御出でにて候ぞ。
ワキ さん候、これは筑紫彦山の客僧にて候が、麓の山陰道より道に踏み迷ひ、前後を忘れじ佇み候所に、今宵のお宿何より以て祝着申候。さて御名を酒呑童子と申し候は、何と申したる請にて候ぞ。
シテ 我が名を酒呑童子と云ふことは、明暮酒を好きたるにより、眷属どもに酒呑童子と呼ばれ候。されば此を見、彼を聞くにつけても、酒ほど面白きものはなく候。客僧達も聞しめされ候へ。
(中略)
ワキ 又は神国氏社南無や八幡山王権現、われらに力を添へ給へと、頼光・保昌・綱・公時・貞光・季武独武者、心を一つにしてまどろみ臥したる鬼の上に、剣を飛ばする光の影、稲妻振動おびただし。
シテ 情けなしとよ客僧達、偽あらじと云ひつるに鬼神に横道無きものを。
(中略)
ワキ あら空事やなどさらば、王地に住んで人を取り、世の妨げとはなりけるぞ、われらをば音にも聞きつらん、保昌が舘に独武者、鬼神なりとも遁すまじ、ましてやこれは勅なれば、土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿りなるらん。
(中略)
ワキ 頼光保昌もとよりも、(地)頼光保昌もとよりも、鬼神なりともさすが頼光が手なみに、いかで漏らすべきと、走りかかってはったと打つ手に、むんずと組んでえいやえいやと組むとぞ見えしが、頼光下に組み伏せられて鬼一口に喰はんとするを頼光下より刀を抜いて二刀三刀刺し通し刺し通し、刀を力にえいやとかへし、さも勢へる鬼神を、おしつけ怒れる首を打ち落とし、大江の山をまた踏み分けて、都へとてこそ帰りけれ。
読みづらい箇所、難しい漢字がふんだんで、「これ読めません。」てな苦情のコメントもつきそうだが、たまにはそのままを掲載し、昔の物語の雰囲気を味わうのもよいのではないだろうか。そして多くの神楽ファンの方が、最初の一行を読んだ時点でピンとくるものがあると思う。そう、安芸太田町の三谷神楽団「大江山」は、この謡曲をかなり忠実にして舞っておられるようだ。他の旧舞「大江山」も、多くは謡曲を出典としているようだが、かなり違いがあるように思える。これは、前章で紹介した「戻り橋」「羅生門」の物語以上に、「大江山」伝説が数多く残されているためだと考えられる。では次回は、またいつものバージョンで「大江山の酒呑童子退治」をご紹介したいと思う。
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まずは大江山の場所について。実は大江山は二つある。これまた知らない方にとっては混乱を招きそうだが、わかりやすく地図を描いてみたので参考にしていただきたい。
神楽でおなじみの「丹波の国大江山」は、都から北西の位置にあり、かなり離れている。が、中世の「大江山」と言えば、すぐ近くの「大枝山」を指していた。ここには酒呑童子の首塚が残されている。また、日本武尊が鬼神を退治する舞台などの伊吹山が酒呑童子退治の場所とする伝説もあったりする。
そのあたりも詳しくみていきたいのだが、そうなると「源頼光」から離れてしまい、またその事だけで二章はスペースをとらないといけない。ということで「大江山」の舞台については、一般説である「丹波の国大江山」とし、今回は他にも「大枝山」がありますよ、という紹介のみにさせていただきたい。
では、神楽「大江山」のもとになったと言われる謡曲「大江山」を少しだけ紹介する。謡曲(ようきょく)というのは、簡単に言えば能のセリフが書かれているもので、神楽と関係しているものは他に「紅葉狩」「土蜘蛛」「安達ヶ原」「鉄輪」などがある。今までは広島弁でわかりやすく紹介してきたが、謡曲を広島弁にしてしまうと謡曲ではなくなってしまうので、少し難しいがそのまま掲載する。
ワキ(頼光)ワキヅレ(従者) 秋風の音にたぐへて西川や、雲も行くなり大江山。
ワキ 抑々これは源頼光とはわが事なり。さてもこの度 丹波の国大江山の鬼神のこと。占方の詞に任せつつ、頼光、保昌に仰せつけらる。
ワキヅレ 頼光、保昌申すやう、たとひ大勢ありとても、人倫ならぬ化生の者、いづくを境に攻むべきぞ。
ワキ 思ふ子細の候とて、山伏の姿に出立ちて。
ワキヅレ 兜にかはる兜巾を着。
ワキ 鎧にあらぬ篠懸や。
ワキヅレ 兵具に対する笈を負ひ。
ワキ 其のぬしぬしは頼光、保昌。
ワキヅレ 貞光・季武・綱・公時、又名を得たる独武者かれこれ以上五十余人。
ワキ まだ夜のうちに有明の。
ワキ、ワキヅレ 月の都を立ちいでて、行く末問えば西川や、波風立てて白木綿の御抜も頼もしや。鬼神なりと大君の恵に洩るる方あらじ、ただ分け行けや足引の大江の山に着きにけり、大江の山に着きにけり。
ワキ 急ぎ候程に丹波の国大江山に着きて候。あら不思議や、これなる川にけしからず血の流れそうろう。いかに誰かある、この所にて童子の住処を尋ねて宿を取り候へ。
狂言(剛力) 畏まって候、まず急いで参ろう。(中略)これはこれは女房衆そなたは何として此処にいるぞ。
(女) そのことでござる、わらわは三歳以前に酒呑童子に捕はれて毎日毎日このやうな濯ぎをしていることでござる。
(剛力) 子細を聞けば尤もでござる。某がこれへ来たはこの度頼み奉る頼光公、童子を退治あるべきとの事ぢや程に、そなたも都へ同道せうによって、何卒そなたは肝を煎つてお宿を申してくれぬか。
(女) 何がさて都へ連れて行て下さるならば、お宿のことはわらわが合点でござる。童子へ其由申しませう程にまづそれに待たせられい。
(剛力) 心得ておりやる。
(女) いかに童子の御座あるか。
シテ(酒呑童子) 童子と呼ぶはいかなる者ぞ。
狂言(女) 山伏達の御入り候が、一夜のお宿と仰せられ候。
シテ 何と山伏の一夜のお宿と候や、怨めしや桓武天皇に御請け申し、われ比叡の山を出でしより、出家には手を指さじと固く誓約申せしなり。中門の脇の廊に留め申し候らへ。
狂言(女) 心得申して候。
シテ いかに客僧たち、何処より何方へ御通り候へば、此の隠れ家へは御出でにて候ぞ。
ワキ さん候、これは筑紫彦山の客僧にて候が、麓の山陰道より道に踏み迷ひ、前後を忘れじ佇み候所に、今宵のお宿何より以て祝着申候。さて御名を酒呑童子と申し候は、何と申したる請にて候ぞ。
シテ 我が名を酒呑童子と云ふことは、明暮酒を好きたるにより、眷属どもに酒呑童子と呼ばれ候。されば此を見、彼を聞くにつけても、酒ほど面白きものはなく候。客僧達も聞しめされ候へ。
(中略)
ワキ 又は神国氏社南無や八幡山王権現、われらに力を添へ給へと、頼光・保昌・綱・公時・貞光・季武独武者、心を一つにしてまどろみ臥したる鬼の上に、剣を飛ばする光の影、稲妻振動おびただし。
シテ 情けなしとよ客僧達、偽あらじと云ひつるに鬼神に横道無きものを。
(中略)
ワキ あら空事やなどさらば、王地に住んで人を取り、世の妨げとはなりけるぞ、われらをば音にも聞きつらん、保昌が舘に独武者、鬼神なりとも遁すまじ、ましてやこれは勅なれば、土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿りなるらん。
(中略)
ワキ 頼光保昌もとよりも、(地)頼光保昌もとよりも、鬼神なりともさすが頼光が手なみに、いかで漏らすべきと、走りかかってはったと打つ手に、むんずと組んでえいやえいやと組むとぞ見えしが、頼光下に組み伏せられて鬼一口に喰はんとするを頼光下より刀を抜いて二刀三刀刺し通し刺し通し、刀を力にえいやとかへし、さも勢へる鬼神を、おしつけ怒れる首を打ち落とし、大江の山をまた踏み分けて、都へとてこそ帰りけれ。
読みづらい箇所、難しい漢字がふんだんで、「これ読めません。」てな苦情のコメントもつきそうだが、たまにはそのままを掲載し、昔の物語の雰囲気を味わうのもよいのではないだろうか。そして多くの神楽ファンの方が、最初の一行を読んだ時点でピンとくるものがあると思う。そう、安芸太田町の三谷神楽団「大江山」は、この謡曲をかなり忠実にして舞っておられるようだ。他の旧舞「大江山」も、多くは謡曲を出典としているようだが、かなり違いがあるように思える。これは、前章で紹介した「戻り橋」「羅生門」の物語以上に、「大江山」伝説が数多く残されているためだと考えられる。では次回は、またいつものバージョンで「大江山の酒呑童子退治」をご紹介したいと思う。
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2006,08,21 Mon 00:00
新着コメント
はるさん、コメントありがとうございます。
お酒が大好きなんですね。
ボクはまったく飲めないんで、童子さんの気持ちがすべて理解できないかもしれません。
酒呑童子が酒を飲む場面は、神楽の見せ場ですよね。
謡曲ではあまりそこは強調されてないようです。
後編で、そのあたりを詳しくご紹介できると思います。
またコメントお願いします♪
お酒が大好きなんですね。
ボクはまったく飲めないんで、童子さんの気持ちがすべて理解できないかもしれません。
酒呑童子が酒を飲む場面は、神楽の見せ場ですよね。
謡曲ではあまりそこは強調されてないようです。
後編で、そのあたりを詳しくご紹介できると思います。
またコメントお願いします♪
| 特派員 | EMAIL | URL | 06/08/21 18:22 | BFfnvy1Y |
私は酒が三度の御飯よりも好きです。
酒呑童子の 『身も心も酔ったりし~ぃ』の
呑みっぷりが、気持ちいい、たまりません♪
酒呑童子の 『身も心も酔ったりし~ぃ』の
呑みっぷりが、気持ちいい、たまりません♪
| はる | EMAIL | URL | 06/08/21 15:12 | gRhkdjzc |
さぁ、いよいよ謎解きの始まりである。とその前に、渡辺綱について調べてみよう。生没については頼光とほぼ同じで、953年~1025年となっている。源敦(みなもとのあつし)の養子で、その敦が頼光の父、満仲の婿だったために、その関係で頼光に仕えるようになった。多田源氏の流れを汲む頼光に対し、綱は箕田(美田/みた)源氏の出身である。ので、もともとは源綱(みなもとのつな)なのだが、養母が摂津国渡辺に住んでいたので、これにちなんで「渡辺」を名乗るようになったという。
少し難しい説明が入ってしまった。それではお待ちかね「羅生門の鬼」の話を紹介する。ここでは、御伽草子「羅生門」と謡曲「羅生門」を組み合わせ、より物語性を持たせて、神楽ファンのみなさんにわかりやすいよう編集を試みた。
源頼光と四天王、藤原保昌の六人は、大江山で酒呑童子をはじめ七十五匹の鬼を退治した。春雨が降り続くある日、頼光は四天王と保昌を招いて酒をふるまった。その酒宴の席で保昌が「そぉいや、大江山で鬼退治したときに、一匹討ち漏らした鬼がおるらしいで。」と語り始めた。みなが興味を示し、保昌は続いて「へぇで最近、その鬼が九条の羅生門に住み着いてからに、わりぃことするゆぅんじゃと。」と言った。すると渡辺綱が「おぉい保昌さん、そがぁなことがあるわきゃなかろぅて。羅生門は都の南門じゃろ?『土も木も わが大君の国ならば いづくか鬼の宿と定めん』ゆぅ歌もあるじゃろが。ホンマにおったとしても、羅生門に鬼を住まわせちゃぁいけんわ。そんなつまらんげな事は言いんさんなや。」と言った。保昌は「へじゃぁあんたはわしがウソをよぅる言うんか。このこたぁ、誰でも知っとるけぇよぅるんで。ウソじゃ言うんなら、今晩にでも羅生門へ行ってからにホンマかウソか見てきんさいや。」と答えた。すると「はぁ、そりゃぁわしが羅生門へよぅ行かん思うとんじゃろ。へんならホンマかウソか、今晩行ってみちゃろうてぇ。なんか、そけぇ行ったいう印のもんをくれぇや。」と、羅生門へ行く姿勢を示した。みなが「やめときんさいや。」と止めたが、綱は「いやいや、別に保昌さんとケンカするわけじゃないんだが、一つは帝(みかど)のためでもあるけぇ、印をくれぇ言うたんよ。」と言う。それを聞いた頼光は「なるほどのぅ、綱が言うように一つは帝のためにもなるけぇ、印を立てに行ってきんさい。」と許可を出した。
こうして綱は、羅生門に置いてくる印をもらい、さっそく準備をし始めた。鎧を身に付け、兜の緒を締め、先祖伝来の太刀を持ち、たくましい馬に乗り、たった一人で宿を出て、二条大宮を南へ進み羅生門へと向かった。さて九条通りに出て羅生門に近づくと、ものすごい雨が降り始めた。突然のすさまじい嵐に、馬はおびえて立ち止まってしまった。綱は馬から飛び降り、羅生門の石段に駆け上がると、印の札を壇上に立て置いて帰ろうとした。しかし、後ろから兜の錏(しころ:兜の左右や後ろに垂れた、首をおおうもの)をつかんで引き止めるものがあるので、「ぅお!鬼じゃぁ!」と太刀を抜いて斬ろうとした。だが鬼は兜をつかんだので、綱は兜の緒を引きちぎって、思わず壇から飛び降りた。鬼は怒り狂って持っていた綱の兜を投げ捨てた。その背丈は羅生門の軒と同じくらいで、両眼は月日のようにらんらんと光り、綱をにらみつけて立っていた。綱は少しもひるまずに太刀をかまえ、「あんたぁ知らんのんか!わりぃことをするもんは、罰が当たるんでぇ~!」と言って切りかかると、鬼は鉄杖(てつじょう)を振りまわしてきた。綱はそれをかわし、違いざまに鬼に斬りつけた。鬼はさらに突進して綱に組み付こうとしたが、綱はその腕を切り落とした。鬼はたまらず塀に上がり、空へと飛び上がった。綱は後を追ったが黒雲におおわれてしまい、「いつか取り返しちゃるけぇの!!」と鬼の叫ぶ声が聞こえ、そのまま姿を消してしまった。
これが「羅生門の鬼」の伝説である。「戻り橋」で紹介した話とよく似ているのはすぐに気づかれたと思う。が、問題はその時期。これでは「戻り橋」→「大江山」→「羅生門」という順番になってしまう。ますます混乱してきそうだが、どうやらこの「羅生門」の伝説は、「戻り橋」の話をもとに作られたようである。つまり、「戻り橋」「大江山」の物語が定着して以降に作られたもので、正確に言えば神楽の物語と関連はないことになる。羅生門はこれ以外にも、いろいろ鬼にまつわる伝説が残されており、そういったものが組み合わさってこの「羅生門」の鬼伝説が生まれたようだ。
ちなみに御伽草子「羅生門」は、綱が切り取る腕が右腕だったり、鬼を切る刀も膝丸のほうだったりなど、一般的な物語と多少違う部分がある。これは御伽草子が人から人への語り伝えをまとめたものであり、またいろんな人が書き残しているので、どうしても微妙に違いが出てしまうのである。さらに御伽草子「羅生門」は、このあとに頼光が病になり、綱が牛鬼の腕を切り取り、頼光が物忌みをし、腕を取り返されたりという、どこかで聞いたような物語が続いている。これも、もとは土蜘蛛伝説であるものが、いろいろ尾ひれがついて御伽草子に収められたということである。残念ながらその続きの物語はスペースの都合上、割愛させていただく。
で、結局、綱が鬼の腕を切り落としたのはどっち?という最大の問題が残っているが、ハッキリ言ってこれは「各神楽団によって異なる」としか言いようがない。もとになった伝説がこれだけバラバラであるのだから、各神楽団で解釈が違ってくるのも当然である。ただ、一つ確かなことは、「都は羅生門、戻り橋あたりにおいて、茨木童子が左の腕を切り取られたり。」というセリフ、これは正しくないということである。前回で解説したとおり、戻り橋と羅生門はまったく別の離れた場所にある。例えるなら「今日は神楽があったけぇ、神楽ドーム、開発センターあたりに行ってきたんじゃ。」てな感じか。「どっちやねん!」とツッコミを入れなければならない。今度「戻り橋」「羅生門」を見るときは、そういうセリフをよく聞いて、いったいどちらで鬼の腕が切り取られたのか、注目すると面白いかもしれない。
最後に「羅生門」そのものについてだが、正確には「羅城門」と書いて「らしょうもん」と読む。しかし、もともとは「らいせいもん」や「らせいもん」と呼ばれていた。それが「らしょうもん」と呼ばれるようになったのはずっと後のことで、完全に定着した原因はあの芥川龍之介の小説「羅生門」であるといわれている。ちなみにこの小説「羅生門」、それから黒澤明監督の映画「羅生門」は、神楽の物語とは関係ない。
いつしか羅生門には鬼が住むと言われるようになった。「門」はある一つの世界と別の世界を結ぶものであり、そこを通り抜けるということは別世界への旅立ちということを意味する。羅生門の鬼伝説も、そういった意識のもとで生まれたのだろう。謎だらけでお送りしたこの章、このあたりでお開きとさせていただくが、最後はやはり謎でしめることにしよう。
『「戻り橋」や「羅生門」で渡辺綱に腕を切り取られた鬼は、本当に茨木童子だったのか!?』
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少し難しい説明が入ってしまった。それではお待ちかね「羅生門の鬼」の話を紹介する。ここでは、御伽草子「羅生門」と謡曲「羅生門」を組み合わせ、より物語性を持たせて、神楽ファンのみなさんにわかりやすいよう編集を試みた。
源頼光と四天王、藤原保昌の六人は、大江山で酒呑童子をはじめ七十五匹の鬼を退治した。春雨が降り続くある日、頼光は四天王と保昌を招いて酒をふるまった。その酒宴の席で保昌が「そぉいや、大江山で鬼退治したときに、一匹討ち漏らした鬼がおるらしいで。」と語り始めた。みなが興味を示し、保昌は続いて「へぇで最近、その鬼が九条の羅生門に住み着いてからに、わりぃことするゆぅんじゃと。」と言った。すると渡辺綱が「おぉい保昌さん、そがぁなことがあるわきゃなかろぅて。羅生門は都の南門じゃろ?『土も木も わが大君の国ならば いづくか鬼の宿と定めん』ゆぅ歌もあるじゃろが。ホンマにおったとしても、羅生門に鬼を住まわせちゃぁいけんわ。そんなつまらんげな事は言いんさんなや。」と言った。保昌は「へじゃぁあんたはわしがウソをよぅる言うんか。このこたぁ、誰でも知っとるけぇよぅるんで。ウソじゃ言うんなら、今晩にでも羅生門へ行ってからにホンマかウソか見てきんさいや。」と答えた。すると「はぁ、そりゃぁわしが羅生門へよぅ行かん思うとんじゃろ。へんならホンマかウソか、今晩行ってみちゃろうてぇ。なんか、そけぇ行ったいう印のもんをくれぇや。」と、羅生門へ行く姿勢を示した。みなが「やめときんさいや。」と止めたが、綱は「いやいや、別に保昌さんとケンカするわけじゃないんだが、一つは帝(みかど)のためでもあるけぇ、印をくれぇ言うたんよ。」と言う。それを聞いた頼光は「なるほどのぅ、綱が言うように一つは帝のためにもなるけぇ、印を立てに行ってきんさい。」と許可を出した。
こうして綱は、羅生門に置いてくる印をもらい、さっそく準備をし始めた。鎧を身に付け、兜の緒を締め、先祖伝来の太刀を持ち、たくましい馬に乗り、たった一人で宿を出て、二条大宮を南へ進み羅生門へと向かった。さて九条通りに出て羅生門に近づくと、ものすごい雨が降り始めた。突然のすさまじい嵐に、馬はおびえて立ち止まってしまった。綱は馬から飛び降り、羅生門の石段に駆け上がると、印の札を壇上に立て置いて帰ろうとした。しかし、後ろから兜の錏(しころ:兜の左右や後ろに垂れた、首をおおうもの)をつかんで引き止めるものがあるので、「ぅお!鬼じゃぁ!」と太刀を抜いて斬ろうとした。だが鬼は兜をつかんだので、綱は兜の緒を引きちぎって、思わず壇から飛び降りた。鬼は怒り狂って持っていた綱の兜を投げ捨てた。その背丈は羅生門の軒と同じくらいで、両眼は月日のようにらんらんと光り、綱をにらみつけて立っていた。綱は少しもひるまずに太刀をかまえ、「あんたぁ知らんのんか!わりぃことをするもんは、罰が当たるんでぇ~!」と言って切りかかると、鬼は鉄杖(てつじょう)を振りまわしてきた。綱はそれをかわし、違いざまに鬼に斬りつけた。鬼はさらに突進して綱に組み付こうとしたが、綱はその腕を切り落とした。鬼はたまらず塀に上がり、空へと飛び上がった。綱は後を追ったが黒雲におおわれてしまい、「いつか取り返しちゃるけぇの!!」と鬼の叫ぶ声が聞こえ、そのまま姿を消してしまった。
これが「羅生門の鬼」の伝説である。「戻り橋」で紹介した話とよく似ているのはすぐに気づかれたと思う。が、問題はその時期。これでは「戻り橋」→「大江山」→「羅生門」という順番になってしまう。ますます混乱してきそうだが、どうやらこの「羅生門」の伝説は、「戻り橋」の話をもとに作られたようである。つまり、「戻り橋」「大江山」の物語が定着して以降に作られたもので、正確に言えば神楽の物語と関連はないことになる。羅生門はこれ以外にも、いろいろ鬼にまつわる伝説が残されており、そういったものが組み合わさってこの「羅生門」の鬼伝説が生まれたようだ。
ちなみに御伽草子「羅生門」は、綱が切り取る腕が右腕だったり、鬼を切る刀も膝丸のほうだったりなど、一般的な物語と多少違う部分がある。これは御伽草子が人から人への語り伝えをまとめたものであり、またいろんな人が書き残しているので、どうしても微妙に違いが出てしまうのである。さらに御伽草子「羅生門」は、このあとに頼光が病になり、綱が牛鬼の腕を切り取り、頼光が物忌みをし、腕を取り返されたりという、どこかで聞いたような物語が続いている。これも、もとは土蜘蛛伝説であるものが、いろいろ尾ひれがついて御伽草子に収められたということである。残念ながらその続きの物語はスペースの都合上、割愛させていただく。
で、結局、綱が鬼の腕を切り落としたのはどっち?という最大の問題が残っているが、ハッキリ言ってこれは「各神楽団によって異なる」としか言いようがない。もとになった伝説がこれだけバラバラであるのだから、各神楽団で解釈が違ってくるのも当然である。ただ、一つ確かなことは、「都は羅生門、戻り橋あたりにおいて、茨木童子が左の腕を切り取られたり。」というセリフ、これは正しくないということである。前回で解説したとおり、戻り橋と羅生門はまったく別の離れた場所にある。例えるなら「今日は神楽があったけぇ、神楽ドーム、開発センターあたりに行ってきたんじゃ。」てな感じか。「どっちやねん!」とツッコミを入れなければならない。今度「戻り橋」「羅生門」を見るときは、そういうセリフをよく聞いて、いったいどちらで鬼の腕が切り取られたのか、注目すると面白いかもしれない。
最後に「羅生門」そのものについてだが、正確には「羅城門」と書いて「らしょうもん」と読む。しかし、もともとは「らいせいもん」や「らせいもん」と呼ばれていた。それが「らしょうもん」と呼ばれるようになったのはずっと後のことで、完全に定着した原因はあの芥川龍之介の小説「羅生門」であるといわれている。ちなみにこの小説「羅生門」、それから黒澤明監督の映画「羅生門」は、神楽の物語とは関係ない。
いつしか羅生門には鬼が住むと言われるようになった。「門」はある一つの世界と別の世界を結ぶものであり、そこを通り抜けるということは別世界への旅立ちということを意味する。羅生門の鬼伝説も、そういった意識のもとで生まれたのだろう。謎だらけでお送りしたこの章、このあたりでお開きとさせていただくが、最後はやはり謎でしめることにしよう。
『「戻り橋」や「羅生門」で渡辺綱に腕を切り取られた鬼は、本当に茨木童子だったのか!?』
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2006,08,17 Thu 00:00
新着コメント
リロっちさん、コメントありがとうございます。
広島弁にするのはそう大変ではないんですよ。
訳したら自然と広島弁になってて、逆に標準語にするほうが難しいくらいで・・・。
あがぁなことはなぁんですが(笑)。
とにかく、みなさんにわかりやすい、楽しいと言っていただけるのは本当に嬉しいです☆
ランキングにも支持をいただけて、感謝感激してます。
これからもよろしくお願いします!
広島弁にするのはそう大変ではないんですよ。
訳したら自然と広島弁になってて、逆に標準語にするほうが難しいくらいで・・・。
あがぁなことはなぁんですが(笑)。
とにかく、みなさんにわかりやすい、楽しいと言っていただけるのは本当に嬉しいです☆
ランキングにも支持をいただけて、感謝感激してます。
これからもよろしくお願いします!
| 特派員 | EMAIL | URL | 06/08/19 01:15 | BFfnvy1Y |
訳したものをまた広島弁に変えることはとても大変な作業だったのではないかと思います。お疲れ様です・・・☆
おかげで、とても楽しくお勉強させて頂いております。分かりやすく楽しい故、しっかりと頭に残ります!
また、ランキングがグングンとあがっているようですが、このブログをたくさんの方が見られてお勉強されていることをとても嬉しく思います。これからも、私たちファンのために頑張ってくださいね☆
おかげで、とても楽しくお勉強させて頂いております。分かりやすく楽しい故、しっかりと頭に残ります!
また、ランキングがグングンとあがっているようですが、このブログをたくさんの方が見られてお勉強されていることをとても嬉しく思います。これからも、私たちファンのために頑張ってくださいね☆
| リロっち | EMAIL | URL | 06/08/19 00:52 | Q8k/.EqM |
TOKOさん、コメントありがとうございます。
昔の物語って、訳すのが結構大変で、しかも難しい文章が多いんですよね。
だからせっかく訳しても、わかりにくかったりするので、何かいい手はないかなぁ~と思って、会話を広島弁にしてみました(笑)
ようやくその事にコメントしていただけて、内心ホッとしてます☆
これからもよろしくお願いします。
昔の物語って、訳すのが結構大変で、しかも難しい文章が多いんですよね。
だからせっかく訳しても、わかりにくかったりするので、何かいい手はないかなぁ~と思って、会話を広島弁にしてみました(笑)
ようやくその事にコメントしていただけて、内心ホッとしてます☆
これからもよろしくお願いします。
| 特派員 | EMAIL | URL | 06/08/17 22:49 | BFfnvy1Y |
はるさん、コメントありがとうございます。
やっぱり神楽だけ見てると、あらすじがよくわからないことってありますよね!
見事な舞だけについ目が行ってしまったりして・・・。
「楽しく、わかりやすい」という事をテーマに書いてますので、そういうお言葉をいただいて嬉しく思います。
またコメントしてくださいね☆
やっぱり神楽だけ見てると、あらすじがよくわからないことってありますよね!
見事な舞だけについ目が行ってしまったりして・・・。
「楽しく、わかりやすい」という事をテーマに書いてますので、そういうお言葉をいただいて嬉しく思います。
またコメントしてくださいね☆
| 特派員 | EMAIL | URL | 06/08/17 22:45 | BFfnvy1Y |
ここでははじめましてですね♪
源頼光どのや渡辺綱どの等の四天王のお話、または羅生門や戻り橋等の演目のあらすじ等、とても楽しく読ませて頂いております。
特に広島弁の会話が最高です♪
ますます、神楽が大好きになっていきますね。
源頼光どのや渡辺綱どの等の四天王のお話、または羅生門や戻り橋等の演目のあらすじ等、とても楽しく読ませて頂いております。
特に広島弁の会話が最高です♪
ますます、神楽が大好きになっていきますね。
| TOKO | EMAIL | URL | 06/08/17 17:29 | n5WKKwWQ |
「都は羅生門、戻り橋あたりにおいて・・・。」
神楽ファンにはなじみの深いセリフだと思うが、戻り橋と羅生門の実際の位置関係をご存知の方はどれくらいいらっしゃるだろうか?簡単に図で示したのでご覧いただきたい。実はこの二つ、軽く5キロは離れていた。つまり全然違う場所にあったのである。「すぐ近くにあるものだと思ってた・・・」という方も少なくないだろう。が、ここで一つ疑問が生じる。
「ではなぜ、さも近くにあるかのように続けて語られるのか?」
近くにあると思っていた方には自然と湧き上がる思いだろう。なぜか?それは戻り橋、羅生門それぞれに鬼が出たからである。つまり、セリフの「羅生門、戻り橋」の間には「AND」の意味が込められている、というわけだ。
というわけで、その「戻り橋」と「羅生門」にまつわる鬼の話を紹介しよう。まずは「平家物語 剣の巻」より、一条戻り橋に出た鬼の話である。
摂津守頼光のもとには、綱・公時・貞道・末武という四天王が仕えていた。中でも綱は抜きん出ていた。武蔵国の美田(みた)というところで生まれたので、美田源氏と言っていた。頼光が一条大宮に用事があったので、綱を使者に遣わした。夜も更けていたので鬚切(ひげきり)という刀を持たせ、馬に乗せて遣わした。目的地に到着して会合して帰り、一条堀川の戻橋を渡った時、橋の東側に二十歳くらいの女で、肌は雪のように白く、紅梅の着物を身に付け、経を持ち、従者も連れず、たった一人で南へ向う者がいた。綱は橋の西側から「ありゃあ、どけぇ行きんさるんかのう。わしゃあ五条の辺に行くんじゃが、もう暗うなっていびせえじゃろうが。送っちゃろう。」と馴れ馴れしく言うと急いで馬から飛び降り、「この馬に乗りんさい。」と言って、女を抱き上げて馬に乗らせて堀川の東側を南の方へ行っていたが、この女が後ろを向いて「ほんまは五条の辺にゃあ大して用事ゃあないんよ。あたしん家ゃあ都の外にあるんよ。そこまで送ってつかぁさいや。」と言った。綱が「おぉええで。どけぇでも送っちゃるで~。」と言うのを聞いた途端、恐ろしい鬼に姿を変え、「わしが行く所は愛宕山でぇ~!」と言いながら、綱の髪の毛を掴んで北西の方角へ飛び立った。綱は少しも騒がず例の鬚切をさっと抜き、鬼の手をふつっと切った。綱は北野天満宮の社の廊下の屋根の上にどうっと落ちた。鬼は手を切られながらも愛宕へと飛び去った。
さて綱は髪の毛に付いた鬼の手を取って見てみれば、女の雪のような顔に引き換え、真っ黒であった。白い毛が隙間なく生えてまるで銀の針を立てているようだった。これを持って帰ると、頼光はびっくり仰天して、「晴明を呼べぃ!」と播磨守安倍晴明を呼んで「どがんしょーかー?」と問えば、「綱は七日休みをもろうて引っ込んどきんさい。鬼の手をようよう仕舞ぅときんさいよ。祈祷にゃあ仁王経を読みんさい。」と言ったので、その通りにした。六日が過ぎた黄昏時に、綱の宿所の門が叩かれた。「何にゃぁ?」と尋ねれば、「綱の乳母で、渡辺におったのがきたんでぇ~。」と答えた。綱は「わざわざ来てもろうたんじゃけども、七日の物忌みをしよって、今日は六日目なんじゃ。明日まではどがぁやっても会えんけぇ、宿を取りんさい。あさってになったら入れてあぎょうよ。」と言ったら、乳母はこれを聞いてさめざめと泣いて「そりゃぁどうしようもないことじゃ。へじゃけども、あんたが生まれた時からやしのうて育てた気持ちを何じゃぁ思うとんなら。夜もよぅ寝られんかった。濡れたところにわしが寝て、乾いたところにあんたを寝かせて、4~5歳になるまでは強い風にも当てんようにして、いつか大きゅうなって立派になったのを見たい思うて、昼夜ず~っと願いよったかいがあって、頼光さんとこん中じゃ、あんたに並ぶもんはおらん。嬉しゅうて会いたい思よったけども、このごろ悪い夢ばっかり見て心配になってここまで来たのに、門の内へも入れてくれん。親と思うてもらえん。情けないことよ。」そこで綱はしぶしぶ門を開いて中へ入れた。乳母は「七日の物忌みって、なんかあったんかいの?」と聞くので、綱は隠すことではないのでありのままに話した。乳母はこれを聞いて「鬼の手ってどんなんかいの?見たいのう。」と言った。綱は「みやすいことじゃけども、七日目をすぎにゃあだめよ。明日、日が暮れたら見せちゃるけえ。」と答えた。「はあはあ、ほんなら見んでもええわ。わしゃ帰る。」と恨めしそうに言われた綱は、封じてあった鬼の手を取り出して乳母の前に置いた。乳母は「あらいびせ。鬼の手ってこぎゃあなもんなんか。」と言うと、立ち上がって「こりゃあわしの手じゃけえ取るど!」と言いながら恐ろしい鬼に変わって、空へ飛び上がり光って消えた。綱は鬼に手を取り返されて、七日の物忌みを破ったが、仁王経の力で別に被害はなかった。この鬚切は鬼を切って以降、「鬼丸」と改名した。
これは芸北神楽「戻り橋」「羅生門」のあらすじによく似た内容である。ではここで、芸北神楽における「戻り橋」から「大江山」へとつながる物語を整理しておこう。一般的に「戻り橋」で綱が鬼の片腕を切り取り、「羅生門」で鬼がその腕を取り返す。そして「大江山」で鬼退治というわけなのだが、ファンの皆様もよくよくご存知のように、各神楽団でかなり違いがある。たとえば、安芸高田市高宮町の原田神楽団の「戻り橋」は、鬼が腕を取り返す「羅生門」のあらすじだったり、安芸太田町の堀神楽団の「羅生門」は、鬼の腕を切り取る「戻り橋」のあらすじであるなど、とてつもなくややこしい。まるで釣り糸が絡まってしまったようだ。ちなみに釣り糸同士が絡まってしまった状態のことを「オマツリ」という。へぇ。これこそトリビアである。
これだけややこしいので、今回の「戻り橋」は前編、次回の「羅生門」は後編ということにさせていただく。そして次回はもう一つの「羅生門の鬼」の話を紹介する。がしかし!先にネタばらしをしてしまおう。なんと、この「羅生門の鬼」の話は、「大江山」の酒呑童子を退治した後の物語なのであるっ!次回に続く!
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神楽ファンにはなじみの深いセリフだと思うが、戻り橋と羅生門の実際の位置関係をご存知の方はどれくらいいらっしゃるだろうか?簡単に図で示したのでご覧いただきたい。実はこの二つ、軽く5キロは離れていた。つまり全然違う場所にあったのである。「すぐ近くにあるものだと思ってた・・・」という方も少なくないだろう。が、ここで一つ疑問が生じる。
「ではなぜ、さも近くにあるかのように続けて語られるのか?」
近くにあると思っていた方には自然と湧き上がる思いだろう。なぜか?それは戻り橋、羅生門それぞれに鬼が出たからである。つまり、セリフの「羅生門、戻り橋」の間には「AND」の意味が込められている、というわけだ。
というわけで、その「戻り橋」と「羅生門」にまつわる鬼の話を紹介しよう。まずは「平家物語 剣の巻」より、一条戻り橋に出た鬼の話である。
摂津守頼光のもとには、綱・公時・貞道・末武という四天王が仕えていた。中でも綱は抜きん出ていた。武蔵国の美田(みた)というところで生まれたので、美田源氏と言っていた。頼光が一条大宮に用事があったので、綱を使者に遣わした。夜も更けていたので鬚切(ひげきり)という刀を持たせ、馬に乗せて遣わした。目的地に到着して会合して帰り、一条堀川の戻橋を渡った時、橋の東側に二十歳くらいの女で、肌は雪のように白く、紅梅の着物を身に付け、経を持ち、従者も連れず、たった一人で南へ向う者がいた。綱は橋の西側から「ありゃあ、どけぇ行きんさるんかのう。わしゃあ五条の辺に行くんじゃが、もう暗うなっていびせえじゃろうが。送っちゃろう。」と馴れ馴れしく言うと急いで馬から飛び降り、「この馬に乗りんさい。」と言って、女を抱き上げて馬に乗らせて堀川の東側を南の方へ行っていたが、この女が後ろを向いて「ほんまは五条の辺にゃあ大して用事ゃあないんよ。あたしん家ゃあ都の外にあるんよ。そこまで送ってつかぁさいや。」と言った。綱が「おぉええで。どけぇでも送っちゃるで~。」と言うのを聞いた途端、恐ろしい鬼に姿を変え、「わしが行く所は愛宕山でぇ~!」と言いながら、綱の髪の毛を掴んで北西の方角へ飛び立った。綱は少しも騒がず例の鬚切をさっと抜き、鬼の手をふつっと切った。綱は北野天満宮の社の廊下の屋根の上にどうっと落ちた。鬼は手を切られながらも愛宕へと飛び去った。
さて綱は髪の毛に付いた鬼の手を取って見てみれば、女の雪のような顔に引き換え、真っ黒であった。白い毛が隙間なく生えてまるで銀の針を立てているようだった。これを持って帰ると、頼光はびっくり仰天して、「晴明を呼べぃ!」と播磨守安倍晴明を呼んで「どがんしょーかー?」と問えば、「綱は七日休みをもろうて引っ込んどきんさい。鬼の手をようよう仕舞ぅときんさいよ。祈祷にゃあ仁王経を読みんさい。」と言ったので、その通りにした。六日が過ぎた黄昏時に、綱の宿所の門が叩かれた。「何にゃぁ?」と尋ねれば、「綱の乳母で、渡辺におったのがきたんでぇ~。」と答えた。綱は「わざわざ来てもろうたんじゃけども、七日の物忌みをしよって、今日は六日目なんじゃ。明日まではどがぁやっても会えんけぇ、宿を取りんさい。あさってになったら入れてあぎょうよ。」と言ったら、乳母はこれを聞いてさめざめと泣いて「そりゃぁどうしようもないことじゃ。へじゃけども、あんたが生まれた時からやしのうて育てた気持ちを何じゃぁ思うとんなら。夜もよぅ寝られんかった。濡れたところにわしが寝て、乾いたところにあんたを寝かせて、4~5歳になるまでは強い風にも当てんようにして、いつか大きゅうなって立派になったのを見たい思うて、昼夜ず~っと願いよったかいがあって、頼光さんとこん中じゃ、あんたに並ぶもんはおらん。嬉しゅうて会いたい思よったけども、このごろ悪い夢ばっかり見て心配になってここまで来たのに、門の内へも入れてくれん。親と思うてもらえん。情けないことよ。」そこで綱はしぶしぶ門を開いて中へ入れた。乳母は「七日の物忌みって、なんかあったんかいの?」と聞くので、綱は隠すことではないのでありのままに話した。乳母はこれを聞いて「鬼の手ってどんなんかいの?見たいのう。」と言った。綱は「みやすいことじゃけども、七日目をすぎにゃあだめよ。明日、日が暮れたら見せちゃるけえ。」と答えた。「はあはあ、ほんなら見んでもええわ。わしゃ帰る。」と恨めしそうに言われた綱は、封じてあった鬼の手を取り出して乳母の前に置いた。乳母は「あらいびせ。鬼の手ってこぎゃあなもんなんか。」と言うと、立ち上がって「こりゃあわしの手じゃけえ取るど!」と言いながら恐ろしい鬼に変わって、空へ飛び上がり光って消えた。綱は鬼に手を取り返されて、七日の物忌みを破ったが、仁王経の力で別に被害はなかった。この鬚切は鬼を切って以降、「鬼丸」と改名した。
これは芸北神楽「戻り橋」「羅生門」のあらすじによく似た内容である。ではここで、芸北神楽における「戻り橋」から「大江山」へとつながる物語を整理しておこう。一般的に「戻り橋」で綱が鬼の片腕を切り取り、「羅生門」で鬼がその腕を取り返す。そして「大江山」で鬼退治というわけなのだが、ファンの皆様もよくよくご存知のように、各神楽団でかなり違いがある。たとえば、安芸高田市高宮町の原田神楽団の「戻り橋」は、鬼が腕を取り返す「羅生門」のあらすじだったり、安芸太田町の堀神楽団の「羅生門」は、鬼の腕を切り取る「戻り橋」のあらすじであるなど、とてつもなくややこしい。まるで釣り糸が絡まってしまったようだ。ちなみに釣り糸同士が絡まってしまった状態のことを「オマツリ」という。へぇ。これこそトリビアである。
これだけややこしいので、今回の「戻り橋」は前編、次回の「羅生門」は後編ということにさせていただく。そして次回はもう一つの「羅生門の鬼」の話を紹介する。がしかし!先にネタばらしをしてしまおう。なんと、この「羅生門の鬼」の話は、「大江山」の酒呑童子を退治した後の物語なのであるっ!次回に続く!
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2006,08,14 Mon 00:00
新着コメント
リロッチさん、コメントありがとうございます!
あまり知らない方のために、とにかくわかりやすく、ということを心がけておりますので、そう言っていただけると本当に嬉しいです☆
わからないところ、難しいところなどありましたら、お気軽にコメントしてくださいね!
あまり知らない方のために、とにかくわかりやすく、ということを心がけておりますので、そう言っていただけると本当に嬉しいです☆
わからないところ、難しいところなどありましたら、お気軽にコメントしてくださいね!
| 特派員 | EMAIL | URL | 06/08/14 11:04 | BFfnvy1Y |
いつも楽しく読ませていただいております!
文字の色使いも良く、神楽を知らないものにとってもすごくわかりやすく、勉強になります☆絵もおもしろく、イイ感じです♪これからも大変だと思いますが、ファンのために頑張ってくださいね★★★
文字の色使いも良く、神楽を知らないものにとってもすごくわかりやすく、勉強になります☆絵もおもしろく、イイ感じです♪これからも大変だと思いますが、ファンのために頑張ってくださいね★★★
| リロッチ | EMAIL | URL | 06/08/14 11:01 | Q8k/.EqM |
さっそく芸北神楽における、一般的な「葛城山」のストーリーを紹介する。
病にかかった源頼光は、侍女の胡蝶(こちょう)に典薬守(てんやくのかみ)から薬を持ち帰るように命じる。しかし胡蝶は館へ帰る途中、土蜘蛛の精魂に襲われ命を落とす。胡蝶に成り代わった土蜘蛛の精魂は、薬を毒薬に変えて頼光に差し出す。毒薬で苦しむ頼光に土蜘蛛が襲い掛かるが、頼光は名刀「膝丸(ひざまる)」で切りつける。傷を負った土蜘蛛は、住処の葛城山へと逃げ帰り、頼光は「膝丸」を「蜘蛛切丸(くもきりまる)」と改め四天王に与え、土蜘蛛征伐を命じる。四天王は残された血痕をたどり住処を突き止め、土蜘蛛を成敗する。
新舞の中でも、見せ場が多く人気演目の一つである。これを「土蜘蛛」というタイトルで舞っておられるところもあるが、これは神楽の出典が謡曲「土蜘蛛」となっているためと思われる。しかし、新舞の元の台本では「葛城山」となっているので、当コラムではこれで統一していきたい。
では次に、神楽の元になったストーリーを、謡曲ではなく「平家物語 剣の巻」から紹介する。
源頼光が病にかかり、頭痛はするし高熱は出るし、意識はもうろうとするような状態が30日間も続いた。
ある時、少し容体が落ち着いたので、看病していた四天王たちは別の部屋で休んでいた。夜が更けた頃、灯りのついた燭台(しょくだい)の影から、七尺(約210cm)ほどの法師が現れ、するすると寝ている頼光に歩み寄り、縄で縛ろうとした。頼光は驚いてがばっと起き上がり「このわしを縄でひっくくろうたぁ、どこの誰ならぁ~!わりぃやっちゃのぅ!」と言って枕元にあった膝丸をつかみ、「おんどりゃぁ~!」と切りつけた。四天王たちがこれを聞きつけてどやどやと走り寄り、「どがんしんさった!?」と言えば、頼光はかくかくしかじかと説明し、見れば血の痕が点々と残されていた。
四天王がそれぞれ火を持ってこれを追って行くと、北野天満宮の裏手に大きな塚があった。早速、塚に入って奥へ掘り進んで見ると、四尺(約120cm)ほどの山蜘蛛が現れた。四天王がこれを捕らえて頼光の元へ帰ると、頼光は「こんぐらいの事だったんか!こげなやつのせいで30何日も寝込んどったじゃことの、いなげなことよ。そこらへんにさらしとけ!」と言ったので、山蜘蛛を鉄の串に刺して河原に立ててさらした。この時から膝丸は蜘蛛切丸となった。
いかがだろうか。おなじみの神楽のストーリーとは違う点がいくつかあることに気づかれたと思う。もっとも大きな違いは、「胡蝶」の存在だろう。芸北神楽「葛城山」において胡蝶はなくてはならない、いや、主役と言っても過言ではないほどのキャラクターである。しかしこの物語にはその胡蝶が出てこない。胡蝶の出ない「葛城山」なんて、ルゥの入ってないカレーみたいなもんじゃないか。・・・ぐぇ、まずそう・・・。
まずいカレーの話は置いといて、謡曲「土蜘蛛」を調べてみると、こちらには胡蝶が出てくる。しかし、あくまでも侍女であって土蜘蛛の精魂のように扱われてはいない。仮にそうだとしても、セリフや展開などから胡蝶が土蜘蛛の精魂であるといったことは見当たらない。つまり、土蜘蛛の精魂としての「胡蝶」というキャラクターは、芸北神楽のみのオリジナルと言ってもいいと思われる。
次に、土蜘蛛の住処が葛城山ではなく、北野天満宮という点。北野天満宮と言えば、菅原道真が奉られている場所である。平安京からすぐの北の位置だから、奈良県にある葛城山とはかけ離れた場所ということになる。そりゃぁ、血が点々と残るほどの傷を負わされて、100kmくらい離れた住処に帰ろうとすりゃ、途中で失血死するわな。ではなぜこのような違いが生まれたのか。それを解き明かす確固たる証拠は残念ながら無いのだが、ひとつ仮説を紹介したい。
そもそも、「土蜘蛛」というものは何なのか。神楽で言えば「蜘蛛型の妖怪」であるのはみなさまご存知のとおりだが、もともとの意味はそうではない。実は、古く大和朝廷の時代から、反政府勢力は「鬼」に見立てられていた。そういった勢力は中心部から追い出されたわけだから、当然、山にこもることになる。その人々は「熊襲」とか「土蜘蛛」などと軽蔑の意味を込めてそう呼ばれ、忌み嫌われていたのだ。
ではそれを踏まえて、「土蜘蛛」のベースになった事件を考えてみる。
ある晩、都の位の高い人物の屋敷に盗人が侵入するが、見張りに切りつけられて逃げ去る。追っ手が残された血痕をたどると、北野天満宮の裏手で動けなくなった犯人を見つける。犯人はすぐに処刑され、調べると葛城山周辺の者とわかる。朝廷は、この事が明るみに出ては、都の警備体制の不備が露呈され、いたるところから盗人が来るかもしれないと恐れた。そしてこの事件をごまかすため「武名高き源頼光の活躍と剣の威徳で、妖怪を退治した」という話をでっちあげた。
というのが私の仮説である。もちろん、このような事件が本当にあったかどうかは知るよしもないのだが。スペースの都合上、やや説明不足な点もあるかと思うが、そう見当違いなものでもないはず。そしてこの仮説は、このシリーズのまとめにおいても重要な伏線となるので覚えておいていただきたい。
それにしても頼光の超人的な能力はハンパではない。頭痛、高熱で何日も苦しんだ上、胡蝶に毒薬を飲まされるのだ。それでも死なず、逆に襲ってきた土蜘蛛に傷を負わせている。頼光にとって一番の薬は「妖怪」の存在だったのかもしれない。始めは「ここまでやっても頼光に勝てないなんて、土蜘蛛はなんて弱いヤツだ!」と思っていたが、調べてみるとそうではなく、相手が悪すぎたようだ。これを読んだ妖怪・鬼の皆さん、何があっても頼光さん相手に油断しないように!
(写真提供:ユッキー様)
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病にかかった源頼光は、侍女の胡蝶(こちょう)に典薬守(てんやくのかみ)から薬を持ち帰るように命じる。しかし胡蝶は館へ帰る途中、土蜘蛛の精魂に襲われ命を落とす。胡蝶に成り代わった土蜘蛛の精魂は、薬を毒薬に変えて頼光に差し出す。毒薬で苦しむ頼光に土蜘蛛が襲い掛かるが、頼光は名刀「膝丸(ひざまる)」で切りつける。傷を負った土蜘蛛は、住処の葛城山へと逃げ帰り、頼光は「膝丸」を「蜘蛛切丸(くもきりまる)」と改め四天王に与え、土蜘蛛征伐を命じる。四天王は残された血痕をたどり住処を突き止め、土蜘蛛を成敗する。
新舞の中でも、見せ場が多く人気演目の一つである。これを「土蜘蛛」というタイトルで舞っておられるところもあるが、これは神楽の出典が謡曲「土蜘蛛」となっているためと思われる。しかし、新舞の元の台本では「葛城山」となっているので、当コラムではこれで統一していきたい。
では次に、神楽の元になったストーリーを、謡曲ではなく「平家物語 剣の巻」から紹介する。
源頼光が病にかかり、頭痛はするし高熱は出るし、意識はもうろうとするような状態が30日間も続いた。
ある時、少し容体が落ち着いたので、看病していた四天王たちは別の部屋で休んでいた。夜が更けた頃、灯りのついた燭台(しょくだい)の影から、七尺(約210cm)ほどの法師が現れ、するすると寝ている頼光に歩み寄り、縄で縛ろうとした。頼光は驚いてがばっと起き上がり「このわしを縄でひっくくろうたぁ、どこの誰ならぁ~!わりぃやっちゃのぅ!」と言って枕元にあった膝丸をつかみ、「おんどりゃぁ~!」と切りつけた。四天王たちがこれを聞きつけてどやどやと走り寄り、「どがんしんさった!?」と言えば、頼光はかくかくしかじかと説明し、見れば血の痕が点々と残されていた。
四天王がそれぞれ火を持ってこれを追って行くと、北野天満宮の裏手に大きな塚があった。早速、塚に入って奥へ掘り進んで見ると、四尺(約120cm)ほどの山蜘蛛が現れた。四天王がこれを捕らえて頼光の元へ帰ると、頼光は「こんぐらいの事だったんか!こげなやつのせいで30何日も寝込んどったじゃことの、いなげなことよ。そこらへんにさらしとけ!」と言ったので、山蜘蛛を鉄の串に刺して河原に立ててさらした。この時から膝丸は蜘蛛切丸となった。
いかがだろうか。おなじみの神楽のストーリーとは違う点がいくつかあることに気づかれたと思う。もっとも大きな違いは、「胡蝶」の存在だろう。芸北神楽「葛城山」において胡蝶はなくてはならない、いや、主役と言っても過言ではないほどのキャラクターである。しかしこの物語にはその胡蝶が出てこない。胡蝶の出ない「葛城山」なんて、ルゥの入ってないカレーみたいなもんじゃないか。・・・ぐぇ、まずそう・・・。
まずいカレーの話は置いといて、謡曲「土蜘蛛」を調べてみると、こちらには胡蝶が出てくる。しかし、あくまでも侍女であって土蜘蛛の精魂のように扱われてはいない。仮にそうだとしても、セリフや展開などから胡蝶が土蜘蛛の精魂であるといったことは見当たらない。つまり、土蜘蛛の精魂としての「胡蝶」というキャラクターは、芸北神楽のみのオリジナルと言ってもいいと思われる。
次に、土蜘蛛の住処が葛城山ではなく、北野天満宮という点。北野天満宮と言えば、菅原道真が奉られている場所である。平安京からすぐの北の位置だから、奈良県にある葛城山とはかけ離れた場所ということになる。そりゃぁ、血が点々と残るほどの傷を負わされて、100kmくらい離れた住処に帰ろうとすりゃ、途中で失血死するわな。ではなぜこのような違いが生まれたのか。それを解き明かす確固たる証拠は残念ながら無いのだが、ひとつ仮説を紹介したい。
そもそも、「土蜘蛛」というものは何なのか。神楽で言えば「蜘蛛型の妖怪」であるのはみなさまご存知のとおりだが、もともとの意味はそうではない。実は、古く大和朝廷の時代から、反政府勢力は「鬼」に見立てられていた。そういった勢力は中心部から追い出されたわけだから、当然、山にこもることになる。その人々は「熊襲」とか「土蜘蛛」などと軽蔑の意味を込めてそう呼ばれ、忌み嫌われていたのだ。
ではそれを踏まえて、「土蜘蛛」のベースになった事件を考えてみる。
ある晩、都の位の高い人物の屋敷に盗人が侵入するが、見張りに切りつけられて逃げ去る。追っ手が残された血痕をたどると、北野天満宮の裏手で動けなくなった犯人を見つける。犯人はすぐに処刑され、調べると葛城山周辺の者とわかる。朝廷は、この事が明るみに出ては、都の警備体制の不備が露呈され、いたるところから盗人が来るかもしれないと恐れた。そしてこの事件をごまかすため「武名高き源頼光の活躍と剣の威徳で、妖怪を退治した」という話をでっちあげた。
というのが私の仮説である。もちろん、このような事件が本当にあったかどうかは知るよしもないのだが。スペースの都合上、やや説明不足な点もあるかと思うが、そう見当違いなものでもないはず。そしてこの仮説は、このシリーズのまとめにおいても重要な伏線となるので覚えておいていただきたい。
それにしても頼光の超人的な能力はハンパではない。頭痛、高熱で何日も苦しんだ上、胡蝶に毒薬を飲まされるのだ。それでも死なず、逆に襲ってきた土蜘蛛に傷を負わせている。頼光にとって一番の薬は「妖怪」の存在だったのかもしれない。始めは「ここまでやっても頼光に勝てないなんて、土蜘蛛はなんて弱いヤツだ!」と思っていたが、調べてみるとそうではなく、相手が悪すぎたようだ。これを読んだ妖怪・鬼の皆さん、何があっても頼光さん相手に油断しないように!
(写真提供:ユッキー様)
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2006,08,10 Thu 00:00
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| Meredith Mayhew | EMAIL | URL | 18/04/19 09:53 | k8ZW5AA. |
早速ありがとうございます!
そうだったんですか!
佐々木先生を中心として新舞が創作された、ということしか知りませんでした。
神楽団員様のコメントを見ると、どうやらそれぞれの地域で、別々の新舞の台本が書かれた、ということのようですが、そういう解釈でよろしいんでしょうか?
そうだったんですか!
佐々木先生を中心として新舞が創作された、ということしか知りませんでした。
神楽団員様のコメントを見ると、どうやらそれぞれの地域で、別々の新舞の台本が書かれた、ということのようですが、そういう解釈でよろしいんでしょうか?
| 特派員 | EMAIL | URL | 06/08/13 23:48 | BFfnvy1Y |
再度、失礼いたします。
早速のレス恐れ入ります。
現在、舞われている新舞(定義は、色々ありますが、ここでは、第2次大戦終了後、GHQ占領下で製作された演目としておきます。)は、一般に4月にご逝去されました現在の安芸高田市美土里町の佐々木先生の手によるものといわれておりますが、時を同じくして同市吉田町の小都先生・現在の北広島町の進藤先生等、数人の先人の手によるものだといわれております。
早速のレス恐れ入ります。
現在、舞われている新舞(定義は、色々ありますが、ここでは、第2次大戦終了後、GHQ占領下で製作された演目としておきます。)は、一般に4月にご逝去されました現在の安芸高田市美土里町の佐々木先生の手によるものといわれておりますが、時を同じくして同市吉田町の小都先生・現在の北広島町の進藤先生等、数人の先人の手によるものだといわれております。
| とおりすがりの神楽団員 | EMAIL | URL | 06/08/13 23:33 | mOkEVlK. |
「土蜘蛛」、「葛城山」の作者が違うという説があるのは 初耳でした。
まだまだ勉強不足ですので、これからもどうぞご意見よろしくお願いします!
(コメントが途中で途切れて申し訳ありません。)
まだまだ勉強不足ですので、これからもどうぞご意見よろしくお願いします!
(コメントが途中で途切れて申し訳ありません。)
| 特派員 | EMAIL | URL | 06/08/13 23:15 | BFfnvy1Y |
とおりすがりの神楽団員様、コメントありがとうございます!
たくさんのご指摘、非常に勉強になります。
2番目の「土蜘蛛」、「葛城山」の違いなんですが、すべての神楽団の「土蜘蛛」もしくは「葛城山」を調べて結論づけるのが一番よいとは思ったんですが、さすがにそこまでは時間的にも厳しいものがあり、またご指摘のように最近、混同されている傾向も踏まえて、あえて省略さあえていただいた次第です。
あと、正直な話、典薬「頭」も調べてはいたのですが、「神楽の社」の配信中神楽ビデオのあらすじで、自分より詳しい方が「守」とされいたので、一応統一したほうがいいのかな…と「守」にしてしまいました。
ご指摘を受けて、お恥ずかしい限りです。
「土蜘蛛」、「葛城山」の作者が違うという説があるのは
たくさんのご指摘、非常に勉強になります。
2番目の「土蜘蛛」、「葛城山」の違いなんですが、すべての神楽団の「土蜘蛛」もしくは「葛城山」を調べて結論づけるのが一番よいとは思ったんですが、さすがにそこまでは時間的にも厳しいものがあり、またご指摘のように最近、混同されている傾向も踏まえて、あえて省略さあえていただいた次第です。
あと、正直な話、典薬「頭」も調べてはいたのですが、「神楽の社」の配信中神楽ビデオのあらすじで、自分より詳しい方が「守」とされいたので、一応統一したほうがいいのかな…と「守」にしてしまいました。
ご指摘を受けて、お恥ずかしい限りです。
「土蜘蛛」、「葛城山」の作者が違うという説があるのは
| 特派員 | EMAIL | URL | 06/08/13 23:00 | BFfnvy1Y |
第三章「鬼同丸退治」、いかがだったでしょうか。実は、八重西神楽団さんに取材させていただいたのは、6月17日。「神楽の里千代田競演大会」の日だったんです。競演の部でトップバッターということで、さぞかしピリピリモードだろうな…と楽屋を訪ねてみると、意外にもフレンドリーな雰囲気。おかげで楽しく取材させていただくことができました。
ある団員さんに、「この演目を作られたのはいつくらいですか?」
とお尋ねすると、超真剣な顔をされて、
「あれは、ある暑い夜のことだった…。」
と語り始められたので、自分を含めまわり一同、大爆笑。
他にも、メイクを終え準備バッチリの団員さんが「なんだろ?」と近づいてくると、
「これ、フジテレビの取材じゃけぇ。」
「そうそう、明日放送で。」
などなど、笑いの耐えない取材でした。
八重西神楽団のみなさま、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
ありがとうございました!
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ある団員さんに、「この演目を作られたのはいつくらいですか?」
とお尋ねすると、超真剣な顔をされて、
「あれは、ある暑い夜のことだった…。」
と語り始められたので、自分を含めまわり一同、大爆笑。
他にも、メイクを終え準備バッチリの団員さんが「なんだろ?」と近づいてくると、
「これ、フジテレビの取材じゃけぇ。」
「そうそう、明日放送で。」
などなど、笑いの耐えない取材でした。
八重西神楽団のみなさま、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
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2006,08,08 Tue 21:31
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